2024年5月末、いっしょに暮らしていた犬が突然旅立ってしまった。
そうだな、ここではポチと呼んでおこう。
朝、調子が悪そうだったから病院へすぐ連れて行き、治療を受けて安堵して、家に帰ってすぐのことだった。保護犬施設から迎えた子で、もうすぐ5周年というところだった。人生でいちばん泣いた。赤ん坊のように泣きじゃくった。
後悔はあまりない。保護犬施設からポチを迎える前に、絶対に後悔しないように全力を尽くすと誓ったから。
彼は散歩が大好きだったから、すれ違った高校生に「どれだけ散歩行くねん」とボソッと言われるほどたくさん行った。外を歩きたいときとうんちに行きたいときの表情を区別できるほど意思疎通を取れるようになった。何度も深夜3時にうんちに連れて行った。体表にできた2ミリのしこりも見逃さないようにしてきた。こんな小さいのほんとによく見つけられますね、と病院の先生にも褒められた。
けど自分で自分を褒める気にはならない。全力を尽くしたという意味で後悔はないけど、もっといい方法があったんじゃないかとは思うから。
そんな僕だけど、唯一褒めてあげたいことがある。それはポチの姿を写真で残してきたこと。
この5年弱で撮りためた写真は5000枚以上。
カメラ好きではなかったし、2万円の格安スマホで撮った写真ばっかり。けどそんなポチの姿がいまの僕を支えてくれている。
この記事ではカメラの技術について語りたいわけじゃないし、自転車との相性の良し悪しについてもどうだっていい。そもそもド素人過ぎて語れることがない。
ただ、日常の大事にしたい部分は近すぎて見えていなかったし、月並みな表現だけど、失ってからその存在の大きさに気づいた。そして、そんな日々の写真を収めてて良かった。それだけ。
撮りためた5000枚の写真に救われる
記録より記憶もいいし、大事だと思う。けど、いざ手の届かないところに行ってしまうと、当たり前だった日常って意外と思い出せない。思い出せなくなると、自分のなかから大事な存在が消えてゆくようで、それがものすごく怖い。忘れたくないのに忘れてしまうし、思い出したいのに思い出せない。こんな感情は初めてだった。
だけど撮りためた写真と動画に救われている。
冬の間、ポチは僕の布団に毎晩潜り込んで腕まくらをせがんで眠る。スースーと寝息を立てている彼を起こしてしまうから寝返りがうてない。朝起きるといつも体がバキバキだった。だけど、彼がいた方がよく眠れた。
小さな体の負担にならないように、海外から良い素材を取り寄せて布団を作った。1人と1匹サイズで、短い脚でも乗りやすいように薄く、それでいて軽く暖かく。呼吸器系が弱かったから、ホコリが付きにくく、洗いやすく、乾かしやすく、そんな布団を作った。
縫い目がガタガタの布団で眠ってくれるか心配だったけど、前の布団より気に入ってくれて嬉しかったことは覚えている。だけど、毎晩どんな寝顔をしていたか、誰よりも近くで見ていたはずなのに、僕の中からその記憶が消えかかっている。思い出そうとするとモヤがかかる。すごく怖い。画面の中の寝顔を見て、少し安堵する。よっぽど愛おしかったのか、寝顔がたくさん並んでいた。
ポチの散歩に行く前、右足→左足のように必ず決まった順序でハーネスを通すようにしていた。ルーティン化することで彼から足の力を緩めてハーネスを付けやすくしてくれる。毎日3回以上、のべ5000回もやってきた習慣なのに、今ではどちらの足からハーネスを通していたか思い出せない。
けど、数年前の僕はわざわざ玄関に三脚をセットしてハーネスを取り付けるシーンを動画で撮影していた。ハーネスを取り付けるなんて当たり前のこと過ぎて、動画は1本しか撮影していなかった。だけど、その1本のおかげで、彼のことを覚えていられる。
写真を目の前にすると、何年も前のことなのに不思議と思い出せる。ポチと雑草しか写っていなくても、どこの公園のどの辺りを走っているのかわかる。寝起きに散歩に行きたがっている顔だとわかる。雷に怯えているとわかる。
特別な旅なら、写真なんてなくても思い出せるかもしれない。だけど、コンビニに行くだけとか、いつものご近所ルートの田園風景は、身近な存在過ぎてちゃんと目に焼き付けていなかったりする。そして、後になって思い出したくなるのは、そんな日常の方だった。
あの子の存在に比べたら自転車なんてクソほどどうでもいいけど、自転車がない生活なんて考えられないという人もいると思う。学生時代、僕は部活にばかり打ち込んで、いざ引退すると何をすればいいのかわからなくなった。大げさに言うと、アイデンティティの喪失だった。いつか自転車に乗れなくなった時、救ってくれるのが、過去の自分が撮った何気ない1枚の写真だと思った。
ヘタな写真でいいんだよ、きっと
写真に救われたなんて大層なことを書いているけど、肝心の写真は下手くそだ。
5000枚もあれば、いくつか出来の良い写真はある。背景がきれいだったり、これ以上無いというレアな瞬間を撮れたり、カレンダーにしたくなるようなやつだ。
だけど、より心を動かされるのはピントが合ってなくてボケていたり、遠くから撮りすぎて豆粒みたいにしか写っていなかったり、おしゃれとはほど遠い散らかった部屋でぽつんと座っているような、ある意味、生々しい写真だった。
うまく撮ろうとした写真には生活感がなくて、ガサツなキャラなのに部屋が整いすぎているドラマの主人公みたいな嘘臭さがあった。何気なく服を床に放り投げたら雰囲気が出ることがあるけど、そこに手を加えると途端に嘘くさくて台無しになるのと似てると思った。写真の腕がないから、作為的な思惑が透けてしまっているようだった。
人に見せるなら少し背伸びをしてうまく撮れた写真を見せたくなっちゃうし、SNS目的でスマホを構えたときは小綺麗な写真しか撮らなかった。
けど、自分や身近な人のために撮った写真なら下手でいいし、恥ずかしい部分が写っていてもいい。他人から見たら悪い写真でも、伝えたい相手にとって良い写真なら、それでいいんだよ、きっと。
どんなに下手な写真でも、シャッターを押した瞬間の気持ちや思い出がきっと特別な1枚にしてくれる。そう思った。
生々しい写真
思い返すとこれまでは背景ぼかし至上主義だった。カメラアプリのポートレートモードで背景をぼかしさえすれば良い写真になると思っていた。だけど、実際はそんな簡単なものじゃなかったし、背景をぼかすのは見せたいものを際立たせると同時に、見せたくないものにモザイクをかけるようなものなんじゃないかと思った。
撮りためた5000枚の写真の場合、見せたくないものが写り込んでいて、恥ずかしくてかっこ悪くて、そして生々しい写真の方が心に訴えるものがあった。作品にしたいのか、記録を取りたいのか、愛おしすぎてついシャッターを切ってしまったのか、誰に見せるのか見せないのか。かっこよくて、なんかプロっぽい写真だけが良い写真ではないと知った。
世の親はゴッホより普通に娘が描いてくれた似顔絵が好きなのと同じように、写真と撮影者と被写体の関係性、あるいは時間の経過で写真の良し悪しは揺れ動くような気がする。とくに僕のようなズブの素人にとっては。
そういえば自転車ブログを読み漁っていた頃、うまいっぽい写真より、スマホでテキトーに撮ったっぽい写真のほうが良いと感じることが多かった。うまいっぽい写真ってキザに見えちゃうことがあって、見た瞬間にウッとなる。
そういえばそういえば、自転車や風景を撮影するとき、道ばたの空き缶が写り込まないように場所や画角を意識していた。いや、当たり前のように、無意識にそうしていた。今後はそういう見せたくないものが写った恥ずかしい写真も撮ってみようと思う。
カメラに(ほんの少し)ハマった経緯
実はカメラにハマりつつある。
昔から興味だけはあった。かっこいいじゃん。けどそんな理由だけじゃ、僕を突き動かす原動力にはならない。かっこつけだけの趣味は続いたことがない。ブログ用に写真は必要だから、スマホで背景をぼかしたそれっぽい写真を撮って満足していた。
ある日、近所のじいちゃんの服装がおしゃれしてなくてかっこいいんだよって投稿したら、フォロワーさんがYUTARO SAITOさんという写真家を教えてくれた。
おしゃれを意識していないのにかっこいい、そんなご高齢の方のストリートスナップを撮影していて、この人の連載を読むと脳にビリビリと来た。そうだよな、日常の中にも美しいことや素敵なこと、目をそらしたくなることはあるよな。と勝手に納得した。
僕のXのタイムラインには素敵な写真が並んでいた。さらにこの記事を読んで、僕も写真に収めてみたいと思うようになった。10年前に親戚からもらったデジカメを部屋の奥底から発掘して、自転車に乗るときはカメラを持ち運ぶようになった。
カメラを持ち出すようになって、日常に馴染みすぎた物事に目が向くことが増えた。田んぼの用水路の水の流れを美しいと感じたり、道ばたの名前も知らない花に見入ることが増えた。撮りたいことが見つかった気がした。ポチが旅立つ1週間前のこと。時間が足りなかった。
被写体との関係がめんどうだから自撮り
ポチにスマホのレンズを向けると、そそくさとその場を立ち去ることがあった。他人には偶然にしか見えないだろうけど、僕には嫌がっていることがわかった。無理矢理カメラの方を向かせるような、人間のエゴをぐりぐりと押し付けて撮影したことは一度だってない。それでも、ポチは僕の下心を感じ取ったようだった。
ポチは人間の動きをよく観察しているから、たった0.1秒目を合わせるだけでもコミュニケーションになる。それが誤って伝わり、無駄な期待やストレスを与えてしまうこともある。だから彼の体が発する「言葉」を敏感に感じ取る一方で、僕は歩き方だけで何パターンも使い分け、ありとあらゆる自分の動きに注意を払って、伝えたいことが正確に伝わるように意識してきた(伝えられていたかはわからない)。
そんな生活をしているとカメラを構える前から、今はダメだという感触が伝わるようになる。ポチが逃げるように立ち去ることはなくなった。
カメラのことを理解していない犬でさえ、不快感を示す。
犬と理由は異なるとしても、人間相手ならもっと嫌がられることは多々あると思う。
大学のサークルで、ゴツいカメラを構えてはカメラマン気取りでメンバーのことを撮影してるヤツがいた。活動後、アイツはグループLINEに写真を投稿する。顔面ドアップの写真まであった。嫌で嫌でたまらなかったし、それが嫌だと言えなかった。
町中でカメラを構えている人がいると、僕は俯いて顔を隠してしまう。知らない誰かのイイネほしさにSNSにアップされでもしたら、きっと最悪の気分になる。警備員さんの顔をドアップでそのまま流してるツーリング動画を観るとモヤッとする。家族にカメラを向けられるだけでも嫌なのに。
だから僕が撮る自転車の写真は背景が山だったり、コンクリートだったりする。人間はいないことがほとんど。だけど人が写ってる方が物語性が出るような気がしてやっぱり良いと感じるから、ブログ用にたまに自撮りをしてみる。
自撮りってナルシズムが透けて見えるから難しいよね。自然を装ったポーズをすると余計に。自分で見て恥ずかしくなる。けど他人を撮るより気は楽。
使ってるカメラと三脚
- Olympus SZ-14
- JOBY ゴリラポッドミニ マグネティック
Olympus SZ-14(2012年2月発売)
親戚からもらったオリンパスのコンデジ、SZ-14。2012年発売と古いモデルだけど、格安スマホのカメラを使ってきた僕には充分だった。安価でズームが優れているのが特徴らしい。動画もSZ-14で撮っている。
物理ボタンで全ての操作を行えるから、グローブを付けてても影響は少ない。格安スマホは電源ボタンを連続で押すことでカメラが立ち上がるから便利なんだけど、その後のズームや撮影モードの変更でタッチパネルを操作しないといけないし、汗で濡れると誤作動を起こす。
いちばん気に入っているのは、電源ボタンを押すとレンズカバーが自動で開閉すること。かつて、GoProやOSMO POCKETのようなカメラに手を出したことがあるけど、レンズを傷つけたくなくてカバーを取り付けていた。撮影するたびにレンズカバーを取り外すのが面倒で仕方なかった。そのせいで使わなくなった。次にカメラを買うことがあれば、電源ボタンを押すとレンズカバーが開閉する仕様の物を必ず選ぶ。
スマホカメラは便利だけど、落として壊れたら困る。安価なSZ-14なら雑に扱えるし、壊れても困らない(嫌だけど)。それに物理ボタンの操作性は魅力的。カメラを触りたいというのもあって、スマホよりコンデジ派かな。
JOBY ゴリラポッド マグネティックミニ
2020年に買ってほとんど使っていなかったJOBY ゴリラポッドのミニサイズ。脚の先端には磁石が付いている。
当時はマウンテンバイクに乗っていたから、山に分け入っては枝に巻き付けて高いところから撮影したり、フレームにくっつけて自転車を三脚代わりにできないかと考えていた。けど全くと言っていいほど使わなかった。
それが2024年になって大活躍の兆しを見せている。自転車の楽しみ方が山岳ツーリングから街乗りへシフトした。アスファルトの上ばかり走るから、いたるところにガードレールがある。三脚の磁石とガッチリくっついて、高い安定感を生む。カメラをセットしてその場を離れても、風で倒れるなどの心配をしなくて済む。
つまりミニ三脚の欠点である高さ不足を補い、長所である携帯性が際立つということ。
磁石入りミニ三脚の特徴は、自転車の走行環境とマッチしているように思う(※山岳サイクリングやパスハンティングを除く)。
首からぶら下げる速写優先の持ち運び方
稀代のめんどくさがり屋だから、バッグの奥底からカメラを取り出して撮影なんてしない。
速写、速写、速写。
とにかく速写優先。
だからミニ三脚を取り付けたまま、首からぶら下げて持ち運んでいる。自転車とカメラをセットで趣味にしてる人には珍しい持ち運び方かもしれない。
撮りたくなればぶら下がったカメラを構えて撮るだけ。ガードレールに三脚をセットするときは、ストラップとカメラを繋ぐバックルを外すだけ。めちゃくちゃ速い。
フレームバッグやステムポーチも悪くない。だけどファスナーを開ける動作すらめんどうに感じるときがあるし、走行時の振動が気になってしまう。それにミニ三脚を取り付けたままでは、いささか収まりが悪い。稀代のめんどくさがり屋だから、カメラに三脚を取り付けたまま収納したい。となると、首からぶら下げた方が何かと都合がいい。
斜めがけも考えたけど、転倒したときの内蔵へのダメージが心配だったから採用しなかった。首からぶら下げていても似たようなものだけど、体の正面なら受け身を取れるだろうと楽観視している。いや、ホントはちょっと心配。
走行時のぷらぷらが気になる人もいると思うし、僕はそういう鬱陶しさが大嫌いなタイプ。にも関わらず、そんなに気になっていない。
- 基本はのんびり走行
- 90度近いアップライトな姿勢だから胸でカメラを支えやすい
- ノースロードバーで前傾姿勢を取るとカメラが宙に浮くけど意外と安定する
- 抜重したくなるような段差だとカメラが暴れる
使用感はこんな感じ。
荒れた道ではフレームバッグに入れたり、ネックストラップとシャツの胸ポケットを併用して安定感を高めたり模索中。ちなみにストラップを短くするとぷらぷらを軽減できる。
CHUMS ランヤードオリジナル ネックストラップ
専用のストラップではなく、部屋に転がっていたチャムスのメガネ用ストラップとカラビナを使っていた。ストラップのコットンの質感がよくて、汗疹ができやすい僕でも問題ない。服好きの端くれとしては、アメリカ製というのもお気に入りポイント。チャムスの原点の製品だし。
ただカラビナの操作性はよくなかったから、同じくチャムスのバックル付きストラップに買い換えた。メガネ用ストラップから派生した物だから、首から下げたときの感触は引き継ぎつつ、カメラの脱着はバックルでスムーズに。分離したあとはバックルの片割れがぷらぷらしてカメラにカチャカチャ当たることがあるから注意は必要。ちゃんとアメリカ製。
おすすめの本「うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真」 幡野広志
僕は歌のうまい、ヘタがわからない。おしゃれがなにかもわからない。玉置浩二が歌っていると知れば、これが「歌がうまい」ということかと理解するし、「祖母にもらった服を大事に着てます」と言われたら、この人はおしゃれなんだと感じる。
コンデジを引っ張り出した頃、同じようにカメラのうまい、ヘタってなんだろうと考えた。
そんな疑問にドンピシャで答えてくれそうな本を偶然見つけた。この本を読んでいなかったら、今ごろコンデジは部屋の奥底に逆戻りしていたと思う。
写真を趣味と呼べるようなものにしようとしたとき、それはもう立派な、10万円とかするカメラが必要なのかと思って二の足を踏んでいた。けれど、カメラなんて見た目で選べばいいよって言ってくれるから、親戚にもらった古いデジカメを使うことに迷いがなくなった。ひとまずこれでいいやって。
- 写真に向いてる人、向いてない人
- いい写真とは
- なぜ写真を撮るのか
- 写真をやるなら写真以外のことをする
- カメラじゃなくて写真をやる
- 言葉で伝える
- 端に寄せず真ん中で撮る
ピンときたひとは読んでみて。
あと服好きが読んでも面白いと思う。とくに「未来を写した子どもたち」の項が好き。流行や見栄でおしゃれっぽく服を着るのは、ホントにおしゃれなことなのかとか考えた。「写真に大切なのは写真以外の知識と経験」と書いているところなんて、ファッションとかおしゃれとかに置き換えられると思った。
僕はかっこつけやキザなことが好きじゃないんだろうな。だけど自分のなかにもナルシズムはあって。難しいね。
この本を読んでから、ポチの姿を撮るにはあまりに時間が足りなかった。けど彼がいなくなってからの方が、この本に書いてあることを理解できた気がした。撮りためた5000枚を見返すとよくわかることが多かった。
しょうもない写真を削除してしまわないためにAmazonフォト
あとになって見返したくなる生々しい写真は、スマホの64GBのストレージが足りなくなったらまっさきに消してしまいそうになる写真ばかりだった。ブレブレの写真なんて、撮ったその場で消してしまうことも珍しくないと思う。
当時の僕はカメラに気持ちもなかったし、ヘタでどうしようもない写真が後に最も大切な写真の1枚になるなんて思いもしなかったわけで、5000枚の写真を保存できていたのは奇跡的。まじで。
Amazonフォトはプライム会員になると写真を無制限で保存できる(2024/07/08)。
だからどんなにくだらない写真でも、ひとまずAmazonフォトに突っ込んでおける。選別する必要がない。これに一体どれほど救われたか。
プライム会員に付属するひとつのサービスというのがよかった。出来の悪い写真のためにわざわざ保存方法を考えたり追加でお金を払ったりしなかったはずだから。
ただ動画は5GBまでしか保存できない。途中からはYoutubeに非公開でアップすればいいと気付いたけど、その前はスマホの容量が足りなくなると動画を優先的に消していた。写真1枚消すより、動画1本消したほうが容量を稼げるから。ものすごく後悔している。
写真の数が増えると管理がたいへんになる。だけど、その消してしまったヘタくそな写真は2度と帰ってこない。
プリントアウトのすすめ
ポチの火葬まで1日の時間があったから、撮りためた写真の一部を安いインクと古いプリンターでプリントアウトした。そのうちの2枚は写真立てに収めて、残りはアルバムに。
それで感じた。スマホの画面で見るのと、紙で見るのは違う。
安いインクと古いプリンターを使ったから、スマホで見たほうがきれい。だけど、より涙が溢れてくるのはプリントアウトした写真だった。写真を撫でたり、ただボーっと何時間も眺めていたり、画面で見るのとは違う感覚が呼び起こされた。
言語化するのは難しい。触覚や嗅覚を使うようになっただけかもしれない。
確かなのは、ポチが過去の存在になったと突きつけられたこと。
スマホで見ると日付が出るから過去のことだとわかる。なのに、どこか時間の境界が曖昧な感じがした。
写真はどこまでいっても過去で、それは悲しいけど、いまを生きることを受け入れさせてくれる。そんな感じがした。
まとめ
この記事ではポチの話をしながら、カメラ、写真のことを書いた。記事の最終盤で書くことじゃないけど、年に一度の旅も、毎日のお買い物も、頑張ってまでカメラで撮らなくていいと思う。
カメラで撮るより目に焼き付けたほうがいい場面はあるだろうし、日記や下手なイラストで記録に残しておいてもいいだろうし。
こんなにいい景色だから写真に収めなきゃもったいないとカメラを構えて、撮り終えたらさっさと自転車にまたがってどこかへ行ってしまったことが何度もある。いい天気だからと写真撮影にお誂え向きの場所を探しながら走って、木陰の涼しさや風を切る爽快さが目に入らないこともあった。
シャツの汚れが気になるあまり家族との久々の外食がうわの空なんてかっこ悪い。子どもと公園で遊ぶのにおしゃれを優先して一緒に地べたに座れない親を見るとモヤモヤする。
カメラに必死になるあまり、大事な何かを見落とすことがあると思った。
中学の音楽の授業で、クラシック音楽を聴いてどんな情景を表した曲なのか、を考える授業があった。「季節は冬。ひとりの少女が猛吹雪のなか家出をして身に危険が迫っている」。僕はそんなことを感じて、実際そんな曲だったらしい。曲名は綺麗さっぱり忘れた。知ってる人がいたら教えてください。
当時の僕は感受性が豊かだったらしい。
それから大人になるにつれ、心が氷のように硬く冷たくなっていった。
だけど、ポチと過ごす日々の中で、少し心を取り戻せた気がする。躊躇なく大好きと伝えられたり、彼がいた普通の日常を大事に思えたり、雨も悪くないと感じたり。スーパーのおばちゃんの笑顔とか、汗でびしょびしょになった白いTシャツとか、そんななんでもないことに「いとおしさ」のようなものを感じることがほんの少し増えた。
ポチはいつも目の前のことに全力で、いまこの瞬間を必死に生きていた。
ただのなんでもない日常を横目で流し見するんじゃなくて、年に1回ぐらいは真正面から見てみたらいいんじゃないかと思った。
今日も僕は少し遠回りをして帰る。
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